BRANDSTORY ブランドストーリー
STORY
ストーリー
始まりは大川の地から
時は江戸時代末期の一八五五1855年。
筑後川河口部に位置する久留米藩・榎津
(現福岡県大川市榎津)は、
幕府の天領・日田から運ばれるお米と
島原・天草から運ばれた鮮魚等の
荷揚げ・積替えの地として栄えていました。
米屋を本業としていた初代当主・志岐次平が
魚市場で仕入れた魚で蒲鉾や竹輪を造り始め
当社の物語は始まりました。
Okawa
Fukuoka, Japan
福岡県南部から佐賀県東部に広がる筑紫平野の中心に
位置し雄大な筑後川が有明海に流れ込む地。
家具・建具に代表される木工業が中心産業。
筑後川と有明海の豊かな自然の恵によりもたらされる
水稲・いちご・海苔など農水産業も盛んである。
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大川観光協会公式ホームページ写真提供:(公財)筑後川昇開橋観光財団
第三代当主・志岐信次
時計の針を進め、日露戦争終戦直後の一九〇五1905年十二12月、
第三3代当主・志岐信次が生を受けました。
幼少の頃より学校から帰ると蒲鉾や竹輪造りの手伝いをして
過ごした信次は、練り物造りの奥深さに魅了され、
十三13歳にして家業に入ることを決意します。
自身の目利きで原料魚を仕入れるなど品質にひと際こだわりをもち、
新たな製法の開発にも積極的に取り組んだ信次は、
厳父であった第二2代当主・志岐榮蔵の指導もあり、
二十三23歳の若さで家業のほとんどを任されるに至ります。
その後、父・榮蔵の他界により
信次は三十八38歳の若さで当主に就任することとなります。
時は第二次世界大戦下の一九四三1943年。
戦禍により原料魚や副資材の調達は困難を極めており、
業界全体が危機的状況に瀕している中での当主就任でした。
強い使命感と固い信念
練り物は質の高いタンパク源であるとともに、
お魚を手軽かつ美味しく食すことができる大衆食品です。
信次はこのような練り物がもつ社会的意義を十分心得ていました。
「業界と製品の地位向上を図る」。
この使命感が事業存続の危機における信次の原動力となりました。
戦禍による苦境において、信次は自らが調達した原料を
近隣の同業他社にも分け与えるなど、
業界全体の調達支援に力を注ぎ、事業の継続を下支えしました。
このような姿勢は、戦後においても変わらず、
長崎の底引漁物の誘致や業界事業者と魚市場との取引制度の確立、
製造設備の研究会の開催などに尽力し、
業界全体の地位向上に大きく寄与しました。
商品力の礎を築く
練り物の造り手として信次が目指したのは、
練り物の伝統性と味の価値観を追求し、
その製品的地位を向上させることでした。
利他的で穏やかな信次の対外的な一面とは裏腹に、
社内においては品質にとことんこだわる
厳しい一面も持ち合わせていました。
このような品質への徹底的なこだわりが実を結び、
一九五一1951年・第四4回全国蒲鉾品評会において
焼竹輪(現・上竹輪)が農林大臣賞を受賞。
これを機に当社は全国的な知名度を得ることとなります。
また、蒲鉾などの伝統的な商品だけを作るのではなく、
手造り蒲鉾をはじめとする多種多様な商品を生み出し、
信次の時代に当社の商品力の礎が築かれることとなります。
昭和から平成へ。第四代当主・博通就任
信次の練り物造りへの強い信念と、業界への長年にわたる貢献が評価され、
一九七一1971年、信次は六十六66歳で黄綬褒章を受章。更に晩年の一九九一1991年、
八十六86歳にして農林水産省が選ぶ「第一回 食の匠」に選出されました。
三3年後の一九九四1994年、練り物に生涯を捧げた信次の人生は幕を閉じます。
信次の後を継ぎ、当主となったのが、当時四十三43歳の志岐博通でした。
時は昭和から平成に移り、地元大川の基幹産業・家具産業にも陰りが見え始め、
昭和の常識が次々に塗り替えられていく時分。
四代目には大きなチャレンジが求められていました。
新工場竣工。拡大路線の準備整う
少し時計の針を戻し、まだ信次が健在だった八十80年代初頭。
後に四代目当主となる博通は、家業に就いて間もなくして、
新工場移転プロジェクトを担当することとなります。
新工場への移転は生産能力を引き上げるまたとない機会です。
博通は、当時売上の大半を占めていた大川の直営店舗だけではなく、
百貨店やスーパーへも販路を広げ、売上拡大を目指すことを決意します。
将来へのビジョンを胸にプロジェクトに全力を投じた博通は、
一九八四1984年、久留米市城島町への新工場移転を成就させます。
新工場竣工をきっかけに、平成・令和の代に続いていく新たな道を
当社は切り拓いていくこととなります。
次世代に繋ぐ商品開発
販路拡大のためには、ハレの日向け中心だった商品ラインナップに
自家需要向け商品を加えていく必要がありました。
こうした問題意識から博通は次々に新商品を開発していき、
当社を代表する商品となった「ちぎり天シリーズ」をはじめ、
現代にも息づく、数々の商品が生まれました。
特に象徴的なのは、「海鮮しゅうまいシリーズ」の発売です。
佐賀県・呼子発祥のいかしゅうまいを、幾度となく試作し、
当社の強みである良質なすり身をベースにしたレシピに
再構築することで、本家本元に負けず劣らずの品質に仕上げました。
「海鮮しゅうまいシリーズ」は現在では当社の売上の二2割以上を
占めるようになり、新たな売上の柱にまで成長しました。
受け継がれる想いとこだわり
二〇二四2024年、博通は代表取締役を退任し、会長に就任しました。
信次から博通へと手渡されたバトンは、
第五代当主の志岐聡美をはじめ、次世代へと託されました。
信次と博通が駆け抜けた明治・大正・昭和・平成の世と
現在では、社会も会社の姿も大きく異なります。
先が見通しにくい現代だからこそ、先代達が紡いできた
練り物造りへの想いとこだわりが私たちの大切な価値観となり、
これからの道しるべになっています。
ANOTHER STORY
もう一つのストーリー
— 細工蒲鉾 —
プロローグ
夜の静寂が覆う深夜二2時。
数人の男女が作業台にかがみこむように、一心に手を動かしています。
「この色でよかね?」「もうちょっと濃かろうか?」
少ない言葉を交わし、ただひたすら冷たくて白い生地を練り、
色を合わせ、台の上に伸ばしています。
台の上に載っているのは、鮮やかな日本画です。
と見えるのですが、実は魚のすり身で作られた「細工蒲鉾」なのです。
加熱前の生のすり身を使うだけに、作業部屋は寒く保たれており、
夜が更けるにつれて、足元は冷え上がり、指先もかじかんできます。
一人一人の息づかいとすり身をピタンと練る音が静寂の奥に消えていく。
この息詰まるような作業が、もう三十30時間も続いているのです。
———時は一九五九1959年———
後に平成天皇に即位される明仁皇太子殿下のご成婚に献上するための
細工蒲鉾作りの最中のことです。
その作業の中心に、この物語の主人公、志岐シヅヱの姿がありました。
独創的な細工蒲鉾を目指して
時は明治後期の一九〇九1909年にまで遡ります。
志岐シヅヱはこの年の一月二十二日1月22日に生まれました。
父や兄を手伝って小学生の頃から毎日蒲鉾に接していたシヅヱは、
小さい頃から周囲が驚くほど手先が器用で、
結婚式や祝儀のときに求められる「飾り蒲鉾」の〈寿〉“寿”の飾り字や
鶴亀模様を描いて腕を振るっていました。
戦争の辛苦を乗り越えたシヅヱは、戦後から始まった全国蒲鉾品評会という
全国の練り物メーカーが選りすぐりの品を出展する催しに、
独創的な細工蒲鉾を出展できないかと考えつきます。
細工蒲鉾には、絞り出し(※1※1)や切り出し(※2※2)といった技法の他に、
すり身の下地の上に型紙と着色したすり身を使って
模様を描いていく摺り出しという技法があります。
シヅヱはこの摺り出し技法によって日本画を描くことを構想し、
出展に向けて一人準備を始めました。
-
※1※1 布袋につけたノズルからすり身を絞り出しながら描く技法。
細工蒲鉾の技法の中では最も一般的な技法である。 -
※2※2 金太郎飴のように蒲鉾のどこを切っても同じ絵柄とする技法。
昔は高度な技術を要したが、現在は特殊な成型機で量産可能。
壮絶な製作工程
日本画を題材とする細工蒲鉾は、
扇や鯛の形の一般的な細工蒲鉾よりもはるかに大きく、
また細部の細かさも尋常ではないため、
その製作過程は壮絶でありました。
まず数百枚に及ぶ型紙を用意する必要があります。
原画をトレーシングペーパーで写し取り、
絵の構造や色の違いを掴み取り、
一つずつ型紙を作り上げるのです。
人物画の命である目の部分だけで二十20枚の型紙を要し、
着物の柄や髪の毛等の細かい構造の箇所は
特に神経を使って型紙を作る必要がありました。
この繊細を極める下準備を誤ると、
絵の完成度は著しく落ちてしまうため、
数か月をかけ慎重に行う必要があります。
日本画の色彩を目指して
そして最も難しいのは、日本画の幻想的な色調を
いかに再現するかでありました。
その上、自らに制約を課すように、
着色には一般的な食用色素の他、
コーヒーや卵の黄身、抹茶など、
全て食べることができるものにこだわりました。
シヅヱは生まれ持った色彩センスの高さで
十10数色に満たないこれらの色を巧みに混ぜ合わせ、
見事に原画を再現したのです。
完成形を製作する前に、数回の試作を行い、
蒸した後の発色や模様の出来栄えを確かめ、
悪ければもう一度、型紙作りからやり直す。
こうした途方もない作業を経て、
一枚の細工蒲鉾が完成するのです。
皇太子殿下ご成婚への献上と高松宮賞の受賞
シヅヱはこのような製作工程を試行錯誤の末に導き出し、
一九五〇1950年、遂に第一作目の「御所車」を完成させました。
翌年以降もシヅヱは毎年力作を品評会に出展し、
絵柄は年々複雑さを増し、絵のサイズも大きくなる中でも、
細部の再現度は高まり、色彩も深みを増していきました。
繊細かつ華やかな蒲鉾の絵は、業界を超えて話題となり、
一九五九1959年、皇太子殿下ご成婚への献上依頼を受けることとなります。
極度の緊張感の中、繊細な作業をやり通し、
遂に大作「蓬莱山宝船」を完成させ、東宮御所にお納めしたのでありました。
その後も、細工蒲鉾への情熱と探求心は尽きず、
毎年、力作を世に送ったシヅヱ。これらの功績が高く評価され、
一九七四1974年、当社は業界で唯一の「高松宮賞」を受賞することとなります。
シヅヱは一九八〇1980年代半ばから手がしびれる病にかかってしまいますが、
技法を受け継ぐ後継者を育てながら、自らも製作の場に立ち続けました。
一九九六1996年、「つれづれ」の製作を手掛けながら、
細工蒲鉾に生きたシヅヱの人生は幕を下ろします。享年八十七87歳でした。
シヅヱが残したもの
細工蒲鉾は防腐処理をしても一1か月で朽ちてしまいます。
そのため、今を生きる我々に残されているのは、
精巧に撮影された原寸サイズの写真のみ。
しかも昭和後期以降のものがほとんどで、
皇太子殿下ご成婚への献上品をはじめとする過去の作品は、
ほとんど写真すら残されていません。
シヅヱは朽ち行く自身の作品を愛おしく見届けつつ、
「次は何を描こうか」「もっとこうすればよかった」と
向上心と共にただただ前を向いたといいます。
シヅヱはたとえ作品がその姿をとどめなくても、
細工蒲鉾に心血を注いだ自身の生きざまは周囲の人の心に残り、
後世まで受け継がれていくと信じていたのだと思います。
だからでしょうか。
後を継ぐ私たちが細工蒲鉾の写真を前にすると、
それがたとえ実物でなくてもその迫力に圧倒されるとともに、
不思議と背筋が伸びる思いになるのです。
30年程前に撮影した映像です。
戦後間もない昭和25年(1950)から創り始め、
昭和34(1959)年には皇太子殿下御成婚の際、『蓬莱山宝船』も献上致しました。
現在までに60点以上作成していますが、
綺麗な写真として残っているのは
昭和60年(1985)からの24点のみです。